飽きるということ

考えごと

Spotifiのサービスは素晴らしい。

ただし、無課金ユーザーに対するシャッフル機能はかなりイジワルだ。

ランダムに選ばれるはずの選曲にかなりの偏りがあり、ひどいときには2回連続で流れてきたりする。

ね?不便でしょ?
有料版になったらCMもないし、いい感じにシャッフルしてあげるよ?

というメッセージがバシバシと伝わってくる。良いサービスには対価を払え。これは正しい。

そしてSpotifiのサービスにはその価値がある。(ごめんなさい日本に帰ったら課金します)

 

話は戻って、お気に入りの曲でも短いスパンで何度も耳にすると、すぐに飽きてしまうのはなぜだろう。

そもそも飽きるってなんだろう。

「慣れてしまう」、「味わい尽くした」。

うーん、少し違う気がする。



「新しい発見がなくなる」。今のところ、これが一番近い感じだろうか。

「お!これは!」とか「ここからどうなる!」とか「こんな隠し味が!」といった感情が芽生えなくなってしまったときに人は飽きてしまうのかな。

作品や自分の感情も含めて、この先の展開が読めてしまう、という境地に達すると「飽きたスイッチ」がポチっと押されてしまうみたいな。

調べれば心理学の本やネットに詳しい分析があるんだろうけど、悔しいから調べない。

 

しかし、見飽きる、食べ飽きる、聞き飽きるなど、五感が違っても同じ仕組みなんだろうか。

ならば、食パンやコーヒー、卵かけご飯や納豆ご飯はなぜ飽きないのか。

新しい発見などはとっくになくなっているのに「それがないと落ち着かない」レベルに格上げされてしまっている。これらは逆に「習慣スイッチ」なるものにでも支配されているのか。

「飽きる」と「それがないと落ち着かない」の境目はどこにあるのか。

 

 

うん、飽きた。終わり。

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